宅の独り言
先日Twitterを徘徊していると、こんなつぶやきを発見。
前も話したかもだけど大谷翔平選手や藤井聡太棋士や芦田愛菜さんみたいなお化け遺伝子を持つ人たちの配偶者はもう国家プロジェクトとして国が専門家を集めて選定するべきなんじゃないかと思ってる。
— Yojiro Noda (@YojiNoda1) July 16, 2020
お父さんはそう思ってる。#個人の見解です
何?????????????
ド直球の優生学的主張である。本人はのちに冗談だと弁明しているし、その方向性で擁護している人もちらほら見掛けるが、まぁジョークには規範というものがあるだろう。しかし別に今回は、有名人のSNSの使い方や氏の人間性についてとやかく言いたい訳ではない。優生学そのものについて、少し考えてみたいのである。
優生学(eugenics)-人間集団の質的向上を目的に、優良な遺伝形質の保存、改善を研究する学問。ダーウィンの進化論の影響を受け、19世紀後半にゴールトンが提唱。
とある。このうち、劣った遺伝子の持ち主を生殖のフィールドから排除しようという「消極的優生学」が、結果的に歴史の惨禍を生んだと考えられる。
そんな訳で、現代において優生学はタブーの領域にある。確かに、優れた/劣った遺伝子という差別的発想も、生殖コントロールによって優位な個体を保存できるという手法も、イデオロギー的かつ似非科学的、進化論を拡大解釈したものに過ぎないと言わざるを得ないだろう。
しかし、一方で遺伝的、生得的な優劣、丸く言えば得手不得手が各々に存在するのも紛れもない事実だ。優生学は「個人間の遺伝的優劣」を前提に成り立つが、遺伝的優劣の存在を認可すること即ち優生学を支持すること、ではない。現代ではここが混同され、一緒くたに蓋をされている気がしてならないのだ。
遺伝の問題は微々たるものであり、全ては出会いと努力で決まる、と声を大にして語る人は大勢居る。だが、これはあくまで私見だが、そういう人間は大抵持つものを持って生まれてきたか偶然努力が当たったか、どちらにせよ成功者の側から自らの歩みを美化しているように思える。全てを経験的要因で語るのは、ともすれば遺伝よりも残酷な「環境の壁」を一部の人々に突き付けることになるし、第一努力で越えられない物は沢山あるだろう。
遺伝的に何かに秀でるとはどういうことか、その知見は社会の経済的運営にどのように寄与出来るか、今社会が抱える問題にどう斬り込めるかを、科学的かつ倫理の範囲で検討する──────これはタブーとしての"優生学"とは一線を画する。差別とイデオロギーを排した、純粋な思索。こうした丁々発止の議論を避け、蓋をし続けるうちに、上で挙げたツイートのような極端な発想が漏れ出てしまう。この事は他の社会問題、例えば障害者差別や男女の不平等などでも言えるのではないか。大きな事件や強い思想が出てくる度に対症療法を施すだけでは、何も進まない。
このまま窒息して堪るものか。